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勝海舟
1868年(慶応4年)戊辰戦争時には陸軍総裁として、後に軍事総裁として旧幕府の代表となる。官軍が江戸に迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。官軍の本陣が置かれていた池上本門寺の庭園(松涛園)内の四阿にて、西郷隆盛との交渉に挑み、江戸市中を戦火から救った。これは勝海舟の行った最も大きな仕事の一つと賞される。 江戸時代末の幕臣、政治家である。枢密顧問官、正二位勲一等伯爵。幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦 (よしくに)、維新後改名して安芳(やすよし)。これは幕末期、安房守に任ぜられたことから勝 安房(かつ あわ)と呼ばれたため、安房(あほう)と同じ音の安芳と変えたもの。海舟は号。佐久間象山よりもらった「海舟書屋」よりとったという。父は旗本小普請組の勝小吉。母は信。山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。1860年には、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカへ渡る。実際にこの計画を立ち上げたのは岩瀬忠震ら、一橋派の幕臣であったが、安政の大獄で引退を余儀なくされたため、木村摂津守喜毅が軍艦奉行並となり、遣米使節の補充員として乗船。また米海軍測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉も同乗した。他に通訳としてジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉も乗り込んでいる。1868年(慶応4年)戊辰戦争時には陸軍総裁として、後に軍事総裁として旧幕府の代表となる。官軍が江戸に迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。官軍の本陣が置かれていた池上本門寺の庭園(松涛園)内の四阿にて、西郷隆盛との交渉に挑み、江戸市中を戦火から救った。これは勝海舟の行った最も大きな仕事の一つと賞される。
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小栗忠順
江戸時代末期の幕臣である。安政5年(1858年)豊後守に任官、のち文久元年(1861年)上野介(こうずけのすけ)に昇進。小栗上野介とも称される。新潟奉行小栗忠高の子、母はくに子。将軍徳川慶喜帰還後も徹底抗戦を主張した。戦略としては小田原をそのまま通過させ箱根の山を越えさせたところで迎え撃つ。そこで後方から挟み撃ち。また当時最強といわれた榎本武揚率いる海軍に艦砲射撃させるといったもの。しかし慶喜は、これ以上の戦の拡大を止めるために中止させた。 この策を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と畏れるほど鬼策だった。 慶応4年(1868年)2月辞職して上野国(群馬県)群馬郡権田村に帰郷。東善寺を住まいとし学問塾の師事や水田整備の日々を送った。 同年4月5日薩長軍に逮捕。翌日烏川のほとりで斬首。逮捕の理由は多数の説がある。
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山岡鉄舟
幕末の幕府家臣、明治時代の政治家。鉄舟は号。通称鉄太郎(鐵太郎)。諱は高歩(たかゆき)。千葉周作門下の剣客で、江戸幕府剣術世話役。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。文久3年(1863年)浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍徳川家茂の先供として京都に上るが、間もなく浪士を引き連れて江戸に帰る。慶応4年(1868年)精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府にたどり着き、単身で西郷と面会。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る!」と大音声で堂々と歩行していったという。西郷との談判において江戸開城の基本条件について合意を取り付けることに成功。その行動力は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。3月13日・14日の勝海舟と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。
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