● 新撰組 ●
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近藤勇
新選組局長。晩年は幕臣。勇は通称、諱(実名)は昌宜(まさよし)。近藤家は名字を近藤、本姓を藤原と自称したことから、近藤勇の朝臣としての正式な名前は藤原 昌宜(ふじわら・の・まさよし)。池田屋に突入して宮部一派を壊滅させた。この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。
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土方歳三
新選組副長。実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ各地の道場で他流試合を重ね修業を積んだと言われる。日野の佐藤道場に出稽古に来ていた天然理心流4代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこの頃出会ったと推測され、安政6年(1859)3月29日、天然理心流に正式入門した。元治元年(1864)6月5日池田屋事件の際は、半隊を率いて長州土佐藩士が頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、直ちに抜刀し踏み込まずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩、桑名藩の兵を池田屋に入らせず、新選組ただ一隊の手柄を守った。慶応3年(1867)6月に幕臣に取り立てられる。しかし同年10月14日に大政奉還、12月9日に王政復古の大号令が発せられるに至り、幕府は事実上崩壊。慶応4年1月3日鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、歳三は墨染事件で負傷した局長近藤勇の代わりに新選組を率いて戦うが、新政府軍の銃撃戦の前に敗北する。歳三は鳥羽・伏見の戦いで敗北する以前の慶応元年頃から、これからは刀で戦ができない時代であると悟り、洋式の軍備を進め始める。
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沖田総司
試衛館にて後に新選組結成の中核となる近藤勇、土方歳三らと同門になる。若くして天然理心流塾頭を務める。沖田は無類の天才剣士であったと言われるが、江戸の頃の教え方はかなり荒っぽいものであったらしい。後年になると穏やかな教え方へと変化した。池田屋事件で、討幕派数人を切り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れる(諸説あり)とされている。近藤勇斬首後から1ヶ月後で、近藤勇の死も知らずに亡くなった。
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永倉新八
新選組2番隊隊長、撃剣師範。本姓は「永倉」ではなく「長倉」。幼名は栄吉、栄治。諱は載之(のりゆき)。近藤らとともに浪士組に参加し、新選組結盟以来の中核をなす隊士で二番組組長を務める。芹沢鴨と同じ神道無念流の免許皆伝。そのため芹沢とも親しく交わる。1864年(元治元年)池田屋事件では、近藤勇、沖田総司らと共に奮戦。沖田が倒れ、藤堂平助が負傷する中、永倉は獅子奮迅の働きをみせた。沖田総司が病床に伏せると、沖田の一番隊も指揮し重要な任務を数々こなした。1868年(慶応4年)に新政府軍との戊辰戦争が始まり、京都の鳥羽伏見の戦いでは、決死隊を募り官軍の銃弾に対して刀一つで突撃する豪胆さも見せた。その後は新選組から名を改めた甲陽鎮撫隊に属して戦うが、敗れ官軍支配下の江戸に戻る。江戸にて、近藤らと分離して結成した靖共隊に属して戦うが、援軍を求め米沢藩に滞留中、会津藩の降伏を知り、その後江戸へ帰還。 松前藩への帰藩が許され保護される。その後は藩医の杉村介庵の婿養子となり北海道に渡る。
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斎藤一
新選組隊士。新選組では三番隊組長や撃剣師範などを務める。明治には警視局に登用され警察官となる。階級は警部補。西南戦争では警視局からの応援部隊に参加した。
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