孝明天皇
幼名は煕宮。1840年に立太子され、1846年の父・仁孝天皇の崩御によって即位した。父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで公家の学問所である学習院を創立した。1853年のペリー来航以来、幕府政治に発言力を持ち、江戸幕府大老井伊直弼が諸外国と独断で条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は譲位さえ表明したこともあった。孝明天皇は攘夷の意思が激しく、妹・和宮親子内親王を第14代征夷大将軍・徳川家茂に嫁がせるなど、公武合体運動を推進し、あくまで鎖国を望んだ。しかし1865年、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にあると見た諸外国海軍は艦隊を大坂湾に入れて天皇に条約の勅許を要求して、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許が出される事となった。だが、この年には西洋医学の禁止を命じる(実際には宮中のみに留まった)などの保守的な姿勢は崩さなかった。その翌年、義弟・家茂の後を追うように崩御した。突然の急死だったため、倒幕派に暗殺されたとの説もある。この説によれば、孝明天皇は保守的な人物で倒幕の意思が無かったため、倒幕派であった岩倉具視などからその存在を疎まれ、毒殺されたのだという。
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