● 公家 ●
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孝明天皇
幼名は煕宮。1840年に立太子され、1846年の父・仁孝天皇の崩御によって即位した。父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで公家の学問所である学習院を創立した。1853年のペリー来航以来、幕府政治に発言力を持ち、江戸幕府大老井伊直弼が諸外国と独断で条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は譲位さえ表明したこともあった。孝明天皇は攘夷の意思が激しく、妹・和宮親子内親王を第14代征夷大将軍・徳川家茂に嫁がせるなど、公武合体運動を推進し、あくまで鎖国を望んだ。しかし1865年、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にあると見た諸外国海軍は艦隊を大坂湾に入れて天皇に条約の勅許を要求して、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許が出される事となった。だが、この年には西洋医学の禁止を命じる(実際には宮中のみに留まった)などの保守的な姿勢は崩さなかった。その翌年、義弟・家茂の後を追うように崩御した。突然の急死だったため、倒幕派に暗殺されたとの説もある。この説によれば、孝明天皇は保守的な人物で倒幕の意思が無かったため、倒幕派であった岩倉具視などからその存在を疎まれ、毒殺されたのだという。
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明治天皇
日本の第122代天皇。名は睦仁(むつひと)。大政奉還、王政復古と戊辰戦争、明治維新、日清戦争、日露戦争などを経験し、明治新政府の最高権力者として祭り上げられた。
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岩倉具視
堀河康親の次男として京都に生まれる。1838年(天保9年)に岩倉具康の養子となる。関白であった鷹司政通の門流となり、朝廷改革の意見書を提出した。1854年(安政元年)に孝明天皇の侍従となる。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、公武合体をすすめ和宮降嫁を推進した。このため、尊王攘夷派の志士たちは岩倉を佐幕派として排斥しようと朝廷に圧力をかけた。このため、京都洛北の岩倉に幽居した。幽居中も意見書を書いて朝廷や薩摩藩の同志におくるなどの活動をつづけた。この間に薩摩藩の動向に呼応する形で倒幕派へと路線を変更させた。明治維新後、参議、大納言、右大臣と昇任していった。1871年には特命全権大使として岩倉使節団を組織し、欧米の文化・制度を視察した。帰国後は征韓論を退けるなど内治につとめた。立憲問題では初めは制定に反対であったが、自由民権運動の高まりをみて方針をかえ、大日本帝国憲法の制定に尽力した。
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三条実美
藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた名門三条家の生まれ。父は贈右大臣実万、母は土佐藩主山内豊策の女紀子。文久3年(1863年)、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩、会津藩らが結託したクーデターである八月十八日の政変により朝廷を追放され、京都を逃れて長州へ逃れる(七卿落ち)。慶応3年(1868年)の王政復古で表舞台に復帰、成立した新政府で議定となる。翌4年には副総裁。戊辰戦争においては関東観察使として江戸へ赴く。明治2年(1869年)には右大臣、同4年(1871年)に太政大臣、内大臣として生涯、政権の中枢にあり続けた。
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