● 水戸藩 ●
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安島帯刀
実父は水戸藩士 戸田三右衛門忠之、母は安島七郎左衛門信可の女。養父は安島彦之允信順。兄は戸田忠太夫忠敞。水戸藩主徳川斉昭の腹心。水戸藩勘定奉行、幕府海防参与秘書掛などを経て水戸藩家老に昇る。幕末の尊王志士として活躍し安政の大獄にて切腹
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藤田東湖
水戸学藤田派の学者。戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、水戸の両田と称される。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。常陸国東茨城郡水戸(茨城県水戸市)で水戸学者藤田幽谷の子として生まれる。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)と言い、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持つ。水戸藩主継嗣問題に当たっては徳川斉昭派に加わり、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、1840年(天保11年)には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得るに至った。1855年11月11日(安政2年10月2日)に発生した安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50。
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武田耕雲斎
水戸藩士・跡部正続の子として生まれ、跡部正房(跡部家の宗家)の養嗣子となった。1817年、300石の家督を継ぐ。このとき、武田信玄の末裔を称して武田姓に改めた。祖先が武田家滅亡時に主家を裏切った為、この家名を嫌ったことから藩主斉昭の許しを得て武田姓への復姓をしたという。戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と称される。徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから、1840年には参政に任じられ、水戸藩の藩政に参与した。しかし1844年、斉昭が幕府から隠居謹慎処分を命じられると、これに猛反対したため、耕雲斎も連座で謹慎となった。1849年、斉昭の復帰に伴って再び藩政に参与し、1856年には執政に任じられた。そして、斉昭の尊皇攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えた。しかし1860年、斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎も藩政から遠ざけられた。斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか1864年には藤田小四郎(藤田東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵してしまう。耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諫言したが、小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請する。耕雲斎ははじめ拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。天狗党の目的は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることが目的であった。そして800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、越前国新保で幕府軍の追討を受けて降伏した。そして、簡単な取調べを受けた後、小四郎と共に斬刑に処されたのである。享年63であった。
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藤田小四郎
常陸国東茨城郡水戸(茨城県水戸市)で当時水戸藩主徳川斉昭の側用人であった藤田東湖の四男として生まれる。小四郎には二人の兄(長男は早世)がいたが、小四郎は兄弟の中で最も才能があり活発であったと言われる。父東湖の影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げて活動するようになる。 1863年(文久3年)、藩主徳川慶篤の上洛に随従し、長州藩士の桂小五郎、久坂玄瑞をはじめ京都に集う志士と交流する。これにより更に尊皇攘夷の思想を深くし、水戸藩過激派の首領格として台頭する。1864年5月2日(元治元年3月27日)、朝廷より攘夷の勅が出されながら無策を続ける幕府に憤り、同志など60人余りが集結して筑波山にて挙兵する(詳細は天狗党の乱に記述)も失敗し、越前国新保(福井県敦賀市)にて加賀藩に捕縛される。小四郎らは鰊倉に監禁された後、加賀藩から幕府へ出された処分寛大の嘆願も空しく1865年3月20日(元治2年2月23日)敦賀の来迎寺にて処刑された。享年24。尚、この来迎寺は元々町人を処刑する場所であった。
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