坂本龍馬
父は土佐藩郷士・坂本八平で次男、母は幸。兄は権平、姉は千鶴、栄、坂本乙女(おとめ)。「龍馬」は本来は「りゅうま」と読むべきであるが、本人による書簡の自署に「良馬」の当て字も残るため、「りょうま」と読まれていたことはほぼ間違いない。楠山塾で学ぶほか、城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。嘉永6年(1853年)に江戸(東京都)に出て、桶町の北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)でも剣を学んだとされ、12月には佐久間象山の私塾にも通っている。安政元年(1854年)に土佐に戻った後、安政3年(1856年)に再び遊学。安政5年(1858年)に剣術修行を終えて帰国。文久三年(1863年)の八月十八日の政変で幕政が反動化すると、勝海舟の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って薩摩藩に保護される。その援助により、慶応元年(1865年)、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。松平春嶽にも謁見し勝海舟の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許され、横井小楠とも対面する。慶応二年(1866年)、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟が結ばれた。龍馬最大の功績と言われるが、実際には、西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説もあり、薩長連合に果たした役割の重要性については評価が分かれている。慶応3年11月15日(1867年12月10日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商も営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。龍馬はまず頭部を深く切られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが数日間は意識があり事件の証言を残した。もしお龍が一緒にいれば龍馬は暗殺されずに済んだとも言われている。
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