● 土佐藩 ●
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山内 容堂
土佐藩14代藩主。容堂は隠居してからの号。酒と詩を愛し、自らを『鯨海酔侯(げいかいすいこう)』と称した。幕末の時流に上手く乗ろうとした態度は、当時の志士達から、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。また重度の歯槽膿漏で、口臭が著しかったと指摘されている。門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を起用した。嘉永6年(1853年)彼を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて藩政改革を断行した。東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝悌らを起用した。福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府を擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出来なかった。龍馬がたてた政権を朝廷に返す案「船中八策」を本人より聞いていた時の藩参政・後藤象二郎はこれを容堂に進言した。容堂はこれを妙案と思い、15代将軍・慶喜に建白。慶応3年10月14日(1867年11月9日)これにより大政奉還が成立した。明治維新後の容堂は内国事務総裁となったが、かつて家臣や領民であったような身分の者とは馴染まず明治2年(1869年)辞職。しかし木戸孝允とは仲が良く自宅に招き明治政府の将来などについて語り合ったという。
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坂本龍馬
父は土佐藩郷士・坂本八平で次男、母は幸。兄は権平、姉は千鶴、栄、坂本乙女(おとめ)。「龍馬」は本来は「りゅうま」と読むべきであるが、本人による書簡の自署に「良馬」の当て字も残るため、「りょうま」と読まれていたことはほぼ間違いない。楠山塾で学ぶほか、城下の日根野弁治の道場へ入門し、下士の習う小栗流和兵法を学ぶ。嘉永6年(1853年)に江戸(東京都)に出て、桶町の北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟の千葉定吉道場(通称:小千葉道場)(東京都千代田区)でも剣を学んだとされ、12月には佐久間象山の私塾にも通っている。安政元年(1854年)に土佐に戻った後、安政3年(1856年)に再び遊学。安政5年(1858年)に剣術修行を終えて帰国。文久三年(1863年)の八月十八日の政変で幕政が反動化すると、勝海舟の紹介で西郷吉之助(西郷隆盛)を頼って薩摩藩に保護される。その援助により、慶応元年(1865年)、土佐脱藩の仲間と共に長崎で社中(亀山社中・のちに海援隊)を組織し、物産・武器の貿易を行った。松平春嶽にも謁見し勝海舟の運動で土佐藩主山内容堂から脱藩の罪を許され、横井小楠とも対面する。慶応二年(1866年)、坂本龍馬の斡旋により、京都で長州の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩の西郷隆盛が会見し、薩長同盟が結ばれた。龍馬最大の功績と言われるが、実際には、西郷や小松帯刀ら薩摩藩の指示を受けて動いていたという説もあり、薩長連合に果たした役割の重要性については評価が分かれている。慶応3年11月15日(1867年12月10日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商も営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされる。当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などに訪問されている。中岡はそのまま龍馬と話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。龍馬はまず頭部を深く切られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。中岡も重傷を負うが数日間は意識があり事件の証言を残した。もしお龍が一緒にいれば龍馬は暗殺されずに済んだとも言われている。
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中岡 慎太郎
陸援隊隊長。名は始め光次、後、道正。号は迂山。変名石川誠之助など。土佐に大庄屋 中岡小傳次、はつの長男として生まれる。武市瑞山(半平太)の道場に入門し、文久元年(1861年)には武市が結成した土佐勤皇党に加盟するが、1863年に京都で八月十八日の政変が起った後に土佐藩でも尊王攘夷活動の弾圧が行われると、藩を脱藩する。長州藩三田尻に逃亡し、亡命浪士たちの統制を行う。石川誠之助を名乗り上洛。薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず。元治元年、禁門の変、下関戦争の長州藩の敗北を機会に尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に転向する。土佐藩士の坂本龍馬とともに長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)の会合・盟約に奔走する。慶応3年(1867年)には藩から赦免され陸援隊を組織し、隊長となる。同年12月、京都近江屋に坂本龍馬とともに滞在中、見廻組佐々木只三郎らに襲撃され、犯行の様子などを語り、龍馬に二日遅れる11月17日に死去、享年29。
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武市瑞山
土佐勤王党の盟主。父は土佐藩郷士の武市正恒、母は大井氏の娘。瑞山はその長男。妻は土佐藩郷士島田氏の娘の富子。子女はなし。 坂本龍馬とは遠縁にあたる。文久元年(1861年)、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて土佐勤王党を結成、2年後には192名が連判に参加。文久3年(1863年)8月18日に会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、事態は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。土佐藩においても、公武合体派の前藩主で老公と呼ばれた山内容堂の影響力が再び増し、瑞山にも藩から帰藩命令が発せられ、帰藩後まもなく入獄。他の勤王党同志も次々と捕縛される。一年半の獄中闘争のなか、まだ捕まっていない同志を思い、吉田東洋暗殺も否定し続けたという。だが、後に捕縛された岡田以蔵の自白により瑞山の罪状はおおむね決定したが、それでも東洋暗殺を否定し、腹を切らせた老公・容堂に慶応元年(1865年)閏5月11日、「君主に対する不敬行為」という罪目で切腹を命ぜられる。享年36。未だ誰も為し得なかった三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せたと伝わる。武市家の家禄は召し上げとなった。
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板垣退助
幕末、明治時代の政治家。自由民権運動の主導者として知られる。高知城下に土佐藩士・乾正成の子として生まれた。先祖は戦国時代に甲斐の武田信玄に仕えた武将板垣信方であると称している。藩主・山内容堂の側用役から始まり、藩の要職を歴任した。討幕運動に参加し、戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いで藩の大隊司令として出征、土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として会津藩などの攻略を行った。この時期から、乾姓から先祖の旧姓である板垣を名乗るようになった。1867年に明治新政府の参与、1870年に高知藩の大参事、1871年に参議となる。1873年に征韓論を主張するが破れて、西郷隆盛とともに下野(明治六年政変)。1874年に愛国公党を組織し、後藤象二郎らと「民選議院設立建白書」を建議したが却下された。1875年に参議に復帰したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
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後藤象二郎
土佐藩の高知城下にて上士・馬廻格の後藤助右衛門の長男として生まれる。将来共に活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んだ。江戸の開成所にて蘭学や航海術、また当時はやり始めた英学も習っている 。後藤は公武合体派の急先鋒であり、武市瑞山(半平太)を党首とする土佐勤王党を実質解散に追い込み、武市らを切腹させた。長崎にて有名な坂本龍馬との会談を行う。会談後、帰国した後藤は坂本龍馬が最初に提案したと言われている大政奉還論を押し進める船中八策に基づき、前藩主・容堂に対し将軍・徳川慶喜に大政奉還させるよう進言する。この進言後、脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのも後藤の働きによると言われている。明治にはいってからは、参与、大阪府知事などに就任するが、明治6年(1873年)に板垣・ 西郷らと共に征韓論論争に破れ、公職を離れる。しかし翌年には板垣退助、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を組織し、 民選議院設立を申し立てたが成功しなかった。
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谷干城
1837年、高知城下に土佐藩士・谷万七(まんしち)の第4子として生まれた。1859年、江戸に出て安井息軒の弟子となって学んだ。その後、土佐に帰国して藩校・致道館で史学助教授となった。このとき、武市半平太と知り合って友人となり、尊王攘夷運動に傾倒する。しかし1866年、藩命で長崎を視察したとき、ここで後藤象二郎や坂本龍馬と交わって、攘夷の不可なのを悟り、次第に倒幕へ傾いていったといわれている。1867年には再び江戸に出て西郷隆盛と会い、薩土(薩摩藩と土佐藩)同盟を結んで討幕運動を目指した。1877年、西南戦争が起こったときは52日にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献し、その功績により陸軍中将に昇進。陸軍士官学校校長・学習院院長を歴任した。その後、政治家に転身。谷干城は同じ土佐藩の出身者である坂本龍馬を厚く尊敬し、1867年に竜馬が暗殺されたとき、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から竜馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて竜馬の暗殺犯を追ったという。谷は犯人は新選組と決めつけていたという。
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岩崎弥太郎
土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。幕末時に坂本龍馬や後藤象二郎の知遇を得る。1873年に現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立、弥太郎の死後、政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸と合併して日本郵船となった。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。
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田中光顕
1843年、土佐藩の家老・深尾家の家臣の長男として生まれた。武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。しかし1863年、勤王党が八月十八日の政変を契機として弾圧されると、自宅謹慎処分を命じられてしまった。1864年、同志を集めて脱藩し、大坂や大和国に潜伏する。やがて長州藩の高杉晋作と会って長州を頼り、自分と同じく脱藩していた中岡慎太郎の配下として働き、薩長同盟の成立に貢献した。1867年、陸援隊が組織されると、その幹部となった。同年、中岡が坂本龍馬と共に暗殺されると、その現場に駆けつけて中岡から経緯を聞いた。彼は、「新選組か伊東甲子太郎の仕業である」と考えていたらしい。中岡の死後、陸援隊の指揮官となって戊辰戦争を戦って活躍した。明治維新後は功労者の一人として昇進する。明治12年10月14日に陸軍省会計局長となる。また、陸軍少将、初代内閣書記官長(現在の内閣官房長官)、警視総監、元老院議員、宮内大臣などを歴任したが、収賄疑惑で周囲から非難を浴びて辞職を余儀なくされ、政界からも引退した。
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岡田以蔵
土佐勤王党の志士。軽輩者の土佐藩士で幕末四大人斬りの一人。万延元年、武市に従って中国、九州で武術修行する。その後、武市の結成した土佐勤王党に加盟。 しかし、なぜか後に名簿から削られている。武市の意向なのか分からないが、暗殺の現場には、武市の指示に従って進んで出ている。武市が、学の無い以蔵を、ただ単に暗殺の道具として使ったともいわれている。一時は少年時代よりの大親友、坂本龍馬の斡旋で、勝海舟の護衛も務めた。八月十八日の政変後、勤王党は失速。武市が土佐に戻ると以蔵は土井鉄蔵と名を変え、一人京都に潜伏した。 しかし元治元年六月頃、幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、と同時に土佐藩吏に捕われ国もとへ搬送される。当時の土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺について土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられて厳しい拷問(上士格であり、土佐勤皇党首領の武市瑞山を除く)を受けており、以蔵も過酷な拷問に耐えたが、遂に全てを白状し、慶応元年五月十日に打ち首、晒し首となった。
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