吉田松陰
叔父である玉木文之進から教育を受け、1840年(天保11年)に11歳にして藩主毛利敬親の御前で山鹿流兵学を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。1853年(嘉永6年)の米国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、同じ長州藩出身の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦したことから、予定を繰り上げて出航したために失敗。1855年生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義をおこなう。その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、木戸孝允、高杉晋作をはじめ久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など維新の指導者となる人材を教える。1858年(安政5年)幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄した。安政の大獄が始まると1859年(安政6年)幕府は長州藩に松陰の江戸送致を命令する。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年29。
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