● 長州藩 ●
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桂小五郎
「長州閥」の巨頭。江戸時代(幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊皇攘夷派の中心人物。薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに、維新の三傑として並び称せられる。別名、木戸 孝允(きど こういん)。本姓は大江氏。 吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、長州藩の指導者、長州藩庁政務座の最高責任者として活躍するが、志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれた。正式な名のりは大江孝允(おおえ・の・たかよし)。
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高杉晋作
萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に萩藩士 高杉小忠太(家禄200石) みちの長男としてうまれる。 10歳の頃には疱瘡を患う。漢学塾を経て、1852年に藩校の明倫館に入学、剣術も学ぶ。1857年には吉田松陰が開いた松下村塾に入り、1858年には藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。 廻船問屋の白石正一郎邸において奇兵隊を結成。幕府の長州征伐が迫る中、長州藩では俗論派が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われた後、下関へ帰還。12月には奇兵隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵、65年には椋梨藤太らを排斥して藩論を統一する。さらに土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を結ぶ。3月には海外渡航を試みて長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、反対される。4月には四国へ逃れ、日柳燕石を頼る。6月に帰郷。68年には伊藤俊介(伊藤博文)とともに薩摩行きを命じられ、長崎で丙寅丸(オテントサマ丸)を購入。第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として小倉方面の戦闘指揮をするが、肺結核のため桜山で療養し、商家の林算九郎邸で死去、享年27。
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吉田松陰
叔父である玉木文之進から教育を受け、1840年(天保11年)に11歳にして藩主毛利敬親の御前で山鹿流兵学を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。1853年(嘉永6年)の米国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、同じ長州藩出身の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦したことから、予定を繰り上げて出航したために失敗。1855年生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義をおこなう。その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、木戸孝允、高杉晋作をはじめ久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など維新の指導者となる人材を教える。1858年(安政5年)幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄した。安政の大獄が始まると1859年(安政6年)幕府は長州藩に松陰の江戸送致を命令する。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年29。
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久坂玄瑞
長門国萩平安古(現・山口県萩市)に萩藩医 久坂良迪 富子の二男として生まれる。藩校明倫館に入って医学および洋書の学んだのち、安政3年(1856年)17歳で九州に遊学。宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰の名を耳にする。帰藩後、松下村塾に学び、高杉晋作、吉田稔麿と共に村塾の三秀といわれた。松陰は久坂を長州第一の俊才であると認め、高杉晋作と争わせて才能を開花させるようつとめた。松陰は、久坂を自分の妹文と結婚させている。八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃された後も、しばらくの間京都詰の政務座役として在京し、失地回復を図った。しかし、翌元治元年(1864年)6月池田屋事件の悲報が国許に伝わると藩内で京都進発の論議が沸騰したため、来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上。真木和泉らと共に堺町御門で戦ったが(禁門の変)、負傷して寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25。
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吉田 稔麿
吉田松陰の松下村塾に入門し、兵学を究める。松陰は稔麿を評価した評を残している。高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれる。池田屋事件で吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。 しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいて、吉田は奮闘の末、討ち死にする。 享年24。
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伊藤博文
幼名は利助、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。松下村塾に学び、高杉晋作、井上馨らと尊王攘夷運動、倒幕運動に加わり、文久2年(1862年)、イギリス公使館焼き討ちに参加。また、江戸幕府方とされた塙次郎・加藤甲次郎の暗殺に加わった。イギリスに密航し、帰国後に革新派に加わる。維新後は伊藤博文(越智宿禰博文 おち・の・すくね・の・ひろふみ)と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて、参与、外国事務局判事、兵庫県知事、工部卿など明治政府の様々な要職を歴任。征韓論争では大久保利通、岩倉具視派に加わる(意外なことであるが、それ以前の伊藤と大久保は大蔵省の権限を巡る問題から対立関係にあった)。大阪会議を斡旋し、大久保暗殺後は内務卿を継承。明治14年の政変で大隈重信らが失脚すると、憲法制定のためにヨーロッパへ渡り、枢密院議長として大日本帝国憲法制定に関わる。85年に内閣制度が創設され、初代首相となる
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入江九一
1837年、長州藩の足軽入江嘉伝次の長男として生まれた。1858年、松下村塾に入門して吉田松陰に学んだ。松陰から高く評価され、久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。同年、師匠の松陰が幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し、倒幕を表明して老中の間部詮勝暗殺計画を企んだ。このとき、高杉と久坂、吉田らは猛反対したが、入江だけは賛成し、計画に加わった。このとき、松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。その後は京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方で、高杉晋作の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。1864年、禁門の変では久坂玄瑞らと協力して天王山に布陣して奮戦したが、敗れて久坂は自刃する。入江は何とか脱出しようと図ったが、敵の銃撃を受けて負傷し、その場で切腹して果てた。享年28。
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